いい爺
街に普通にいるけど、どこか普通じゃない老人を
いい爺
単に#いい爺とは、良い雰囲気のお爺さんの略称であると同時に、なんの気負いもない彼らのセンス。その雰囲気がeasyであるという意味も込めています。
なぜそれが良いと思うのか、それを掘り下げると、服づくりに対するヒントが隠されているような気がしました。
彼らを見ていると、人は死に近づくにつれ、性から離れていくと感じます。
男性とか女性とかの境目が薄くなり、すごくニュートラルな存在になります。
よくいるじゃないですか、おじいちゃんかおばあちゃんか分からない人。
その性のイメージをハッキリとさせない雰囲気や、顔や身体に現れる生き様。
それと服が相まって#いい爺となる。
痩せた身体には大きすぎるジャンパー。
サラリーマン時代を抜け出せない中途半端なスーツスタイル。
ポテっとしたシニアしか履いてない謎のメーカーの運動靴。
着飾りたいけど、持ち合わせのないという侘び。もう老人だから、引退したからいいだろうという諦めからくる寂び。
まさにいい爺は、侘び寂びを体現しているとも言えるのです。
時にはお洒落に余念のない、歳非相応な老人にも出会いますが、はっきり言って魅力は感じません。
造ったような、計算された着飾り方ではダメなんです。
狙わずとも、偶然起きてしまったハプニング的なユーモアや、止むを得ずそうなってしまったような哀愁が生み出す空気は、意図したものには無い魅力があります。
また別の視点から考えると、古着の魅力に共通しているとも言えます。
多分、古着の良さが分からない人は、いい爺の良さも分からないんじゃないかな。
時間でしか得られない服の空気や、偶然の傷、直した跡。
いくら加工で作り込んだ現代の洋服も、時を超えてきた古着のなんてことない愛嬌、可笑しさには敵いません。
それは時間がデザインしたとも言えます。
先ほど、意図したものには生み出せないといいました。
だけどそれを意図的につくり出したい。
新しい服なのに、新鮮な面構えなのに、どこか懐かしくて、それはまるで生まれ故郷のあの景色の一部かの様な服。
若者が着ても老人の様な穏やかさの中にある貫録を表現したいし、余裕と諦めを含ませたい。まして、男らしく、女らしくなどは言語道断。
性を感じさせない奥深い魅力が必要なんです。
それはいい爺たちが教えてくれました。