文脈のない服
所謂若手ブランドと銘打たれたそれの服がランウェイを歩くたびに
ああ、まただ。と思ってしまう。
例えばドレス×ミリタリーなどの異素材の組み合わせや、不思議なバランスによるコーディネーション。
分かりやすくお洒落を表現するには良いとされる、所謂写真映えする、という事なのだろうか。そんなに紐を沢山垂らしてどうするの?
まず、それはなに?
それらの服に文脈を感じない。
ビジュアルや素材の組み合わせの楽しさを追求したいのなら、アート行けば良い。
アートなら
見るアート、聞くアート、聴くアート、触るアートなどとフォントが自由だが、それを服に強要してはいけない。
服は人が着るから、そのフォントは大前提なわけで、それを徹底的にやれるか。どうか。
人が着る、人が見る、人が生きる
という大前提を真剣に取り組むことが詰まらないなら、服はやれない。
ご飯は人が食べるし、家は人が住むし、服は人が着るのだ。
その大前提の制約の中で際どい心理戦を行うことが服のデザインの楽しさである。
食えないご飯はご飯と呼べないし
住めない家は家と呼べない
例え、どれほど美しくても。
だから、制約のないビジュアルの強い服は誰でも作れる。
だけど、人は生きて歩くし、その場所その都度で違う捉え方が起こるし、それが服の醍醐味なのだ。
人間はナマモノだし、オブジェではない。
だから、脈のある服をつくりたい。