ヴィンテージライフ


ヴィンテージの洋服の価値観について。

古着に教えてもらった喜びは計り知れない。

中学生の頃、憧れて買った501というジーパンはスカイブルーに色落ちしていて膝がクラッシュされていた。

近所のアメカジ系リサイクルショップには所狭しと古着が陳列されており
飾られていた5980円のそれを店員さんに下ろしてもらい、狭い試着室で着替えた。

ボタンフライのパンツは初めてで、何故こんなに不便なんだ。と思いながらボタンをかけたことが記憶にある。

新品のものとは何か違う魅力に取り付かれ、必ず週末になると自転車でリサイクルショップに繰り出し、古着をひたすら漁った。

買えないにも関わらず色んな服を見て、着て。
それが純粋に楽しくて仕方がなかった。

文脈のない服


所謂若手ブランドと銘打たれたそれの服がランウェイを歩くたびに
ああ、まただ。と思ってしまう。

例えばドレス×ミリタリーなどの異素材の組み合わせや、不思議なバランスによるコーディネーション。
分かりやすくお洒落を表現するには良いとされる、所謂写真映えする、という事なのだろうか。そんなに紐を沢山垂らしてどうするの?
まず、それはなに?

それらの服に文脈を感じない。

ビジュアルや素材の組み合わせの楽しさを追求したいのなら、アート行けば良い。

アートなら
見るアート、聞くアート、聴くアート、触るアートなどとフォントが自由だが、それを服に強要してはいけない。

服にはボキャブラリーが歴史としてあるし、そのボキャブラリー同士を組み合わせたところで新しい歴史を生もうとするなど考えが甘すぎる。すごく、平面的だ。

服は人が着るから、そのフォントは大前提なわけで、それを徹底的にやれるか。どうか。

人が着る、人が見る、人が生きる
という大前提を真剣に取り組むことが詰まらないなら、服はやれない。

ご飯は人が食べるし、家は人が住むし、服は人が着るのだ。
その大前提の制約の中で際どい心理戦を行うことが服のデザインの楽しさである。

食えないご飯はご飯と呼べないし
住めない家は家と呼べない
例え、どれほど美しくても。

だから、制約のないビジュアルの強い服は誰でも作れる。
だけど、人は生きて歩くし、その場所その都度で違う捉え方が起こるし、それが服の醍醐味なのだ。


人間はナマモノだし、オブジェではない。
だから、脈のある服をつくりたい。

short toxued

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縁あって、村上虹郎くんの授賞式の衣装を作ることが出来ました。

誘ってくれたスタイリストのまっちゃんには本当に感謝です。

デザインから仮縫い、そして本番のギリギリまで3人で意見交換しながら1つのスーツを作り上げるそのプロセスは、緊張感のなかに、高揚感を感じる特別な時間でした。

若さの中に、計り知れない色気を持つ虹郎くん。


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本当におめでとう。そしてありがとう。

LABO

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人は、衣服を着る唯一の動物である。

人間を動物として、その動物がいまの衣服に出会ったら何が起きるか。
唯一与えられた道具は鋏ひとつ。


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まるで研究所で服が壊されて生まれていく様を見た。
自分はほとんどノータッチで、被験体であるモデルが思うがままに服を切ったり、結んだりしながら着ていった。

幼稚な発想にも聞こえるから、ある意味恐い試みだったが
すでに服のかたちは勝手に常識になり、袖を通すところ、頭を通すところは決まっている。
と思い込んでいる。

そんな当たり前と言われる事に、疑問を持ち続ける事で次の発見、発展がある。

それを再確認する機会になった。

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強がる弱さ

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特別な目を持った人はたまにいる。
目の大きさに関わらず、瞳の中で光が四方八方に行き交い、どこまでも瞳が奥に続いている。
そんな目を持つ人。

工藤ニキちゃんは、そんな人でした。

彼女に着せると決まってから彼女のインスタグラムや事務所の写真を見ながら考えました。そして、いくつか簡単な質問をメールで投げかけました。
会ったことのない人に服を着せるのは凄く怖くて、人と服がなるべく離れ離れにならないように、情報が欲しかったんです。

その答えに、純粋で純朴だけど人に認められたいエネルギーを感じました。
あと、可愛いとか綺麗がハマる人じゃないなって思ったんです。

そのあとカメラマンの飯塚と夜道を歩きながらロケハンして、イメージを擦り合わせていきました。
別れたあと、飯塚から来たメールがこれです。




場末のバー。ひとり酔い潰れ昨夜の口説き文句も忘れてしまったわ
外に出れば渋谷の濁った空も微かに白み始めて、ふらつく足元には気取った真っ赤のピンヒール。
今の私には必要ないわと掃き溜めみたいなこの街に、吐き棄てるように放ったわ。
気づけば渋谷は午前5時
生まれたてのお天道さんが嫉ましくて、眩しくて、負けじとシガーに火を灯す。

わたし、女なんてやめてしまったわ

骨の髄まで疲れ切ったわたしは朝の陽射しから逃げるかのように駅前の喫茶店に入った
500円玉がくれる温もり、今のわたしにはこれで充分

真っ白なティーカップに滲んだプラム色のルージュがまだわたしが女であることを肯定する



2人で話したストーリーがこうも笑っちゃうくらいドラマチックに書かれると燃えました。
ほんと笑っちゃうんだけど。

女やめたなんてセリフは、本当に女やめれる人が言うセリフじゃないから、諦めの悪さというか、強がる弱さみたいなことが出来ればなと。


ポリサテンのくすんだピンクのキャミソールは、色っぽさと切なさを。
それを抑え込むように三つボタンの不細工なテーラードを羽織る。
ボトムは、スカートとパンツの中間のもの。かなり深く入ったスリットは彼女の隠れた女性の部分を垣間見せる。
足元はドリスヴァンノッテンのレザーサンダル。美しい紅い革と刺繍が素晴らしい。
最後にフィルターをかけるように、マントのようなコートを羽織る。

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ぼんやりした朝焼けの屋上から
舞台は新宿へ。

古くて広い喫茶店での撮影。
自分は他人のフリしながら新聞をパラパラ読み漁る。後から入店したカメラマンとモデル。

ここからはカメラマンとモデルだけの時間。
対面でバストアップ、かなり寄りでの撮影。
例えコートから靴まで用意したとしても、自分はそれを綺麗に見せたいなんて思ってなくて、その服を着ていい顔が引き出せて、いい写真が撮れればそれで役目としては充分。

見えるはずのない部位を見せたいが為の動作はあまりに虚しいから。

静かな店内に響き渡るシャッター音。
そのひと巻き、ひと巻きが2人の時間を刻んでいきました。


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生きてる
ただそれだけの動作で充分



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浮世絵的洋装

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スタイリングしました。
洋服で和装ないし浮世絵をつくる感覚で着せました。

日本人は着物に見られるように、本来は多色使いを好む人種です。

ですが、洋服の輸入が進むに連れ、その華やかな色使いは難しくなりました。
それは、洋服という輸入品に対して、日本人は日本人としてのアレンジが出来なかったという事になります。

勝手にいじってはいけないタブーの様な物体として、洋服を取り入れたのです。
幕末の武士が、ワイシャツに着物を合わせたように。女学生が、袴にブーツを合わせたように。

日本人なりの洋服の扱いをしなければ、いつまでも西洋の真似事にしかなりません。

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あくまで洋服のかたち
ただ、色使いと着こなし方は和装。

性の境目を感じさせない、まさに浮世離れした雰囲気をもった2人が強い色を着るサマはまさにカブキ者を感じさせてくれました。

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日本人には歌舞く力がまだまだある。


ブランド事業とは


良いものさえ作れば誰かが見つけ出して、評価してくれる。
なんて時代は終わった。

自分はファッション界において、どんな立ち位置で、どう在り続けるか。

分かりやすい特別性、そしてそれをとりまく環境を育てる、つくることが必要不可欠なのである。

モードなブランド、原宿系、ストリートカジュアル、アメリカンカジュアル。

こういったものに区分される時点で、特別性は既に失われている。
〇〇系と、組み分けしたがる日本人は、そこに立ち位置を置くことで安心していられる。
なんて時代は終わった。

その〇〇系にはすでに重鎮がいて、その人達がいまの基盤を築いた事は確かだが、その人達のせいで今のファッション界がある。

服は、産業であり、文化になり得る事を意識せず、進化をやめた結果この有様である。

そもそも、服を当たり前にある存在と認識している時点で文化になり得るなどという考えにも至らないであろう。
裸で生きている動物と明らかに違う服を着るという事への違和感。
その考えこそが他の動物とは違う、
文化を持つ(成す)生き物、人間の能力だ。

洋服は、自分が格好良くいるためのツールと勘違いしてはいけない。
洋服の仕事、洋服のデザインをしているというステータスに溺れ、私利私欲に生きては産業や文化の発展に繋がるはずもない。

ブランド事業とは
共につくる仲間を守ること
販売する卸先と正当な関係をつくること
販売スタッフを育てること
ファンに上記全てから成る信用を売ること
関わる人すべてを幸せにすること

綺麗事ではなく、この考え方こそが真に新しい産業や文化を生み出すことになる。

目先の利益にとらわれ、海外生産にシフトチェンジした結果多くの縫製工場が潰れました。
海外から安い生地を多く仕入れ、多くの生地屋が潰れました。

取扱先の店からの仕入れ値叩きにより、小さなブランドの生産は回らなくなり潰れました。
また、納品時期の調整により(これはまた詳しく話します)建て替えが増え、その為消極的なものづくりをせざるを得なくなりました。

次から次へと消えては生まれる新しい服(ブランド)に人の命が宿っている事を教えられていない販売員は、その先にいる消費者へ物体としての服を提供する結果になります。

この悪循環によりいつしか服産業は
「物流」になりました。

現在の消費者のほとんどか手に入れた瞬間の幸福がピークであり、飽きたら売る、壊れたら捨てる。
もうやめましょう。

工場は既存の技術に安心しないで、進化を求める環境を。
ブランドは工場と共により良いものづくりの可能性を生み出し、表面的な変遷だけでなく内面的なオリジナリティも作り上げること。
お店は、入荷した商品への徹底的な理解をすること。

そうすれば、1着に関わる全てのセクションに無形固定資産が生まれ、それがブランドの特別性となり、消費者の中で生き続ける。
 

これは、壮大な夢でもなんでもなくて
こうならなければ、ブランド事業をやる意味がない。